先日、ルーシッド・ボディの先生方とのミーティングがありました。ルーシッド・ボディでは安全で公平なクラスを提供することをとても大切にしているので、様々なバックグラウンドを持つ受講生への配慮についてよく話題に上がります。
BLM(Black Lives Matter:黒人の命も大切だ)運動に伴い、よく聞くようになった言葉でBIPOCがあります。Black, Indigenous and People of Color(黒人、先住民、有色人種)を指すものです。
私が最初にPeople of Color(有色人種)やColoredという言葉を耳にしたのはおよそ20年前、大学卒業後に日本語を教えながら演劇の勉強をしたテネシー州の小さな町でのことです。この町は人口のほとんどが山の上にある私立大学の生徒と教職員で構成された(おそらく裕福な)白人を中心としたコミュニティーでした。
大学の履修要綱で「日本語」や「アジア研究」が「Third World Studies(第三世界研究;アジア・アフリカ・南米などの未開発・開発途上国についての研究)」としてくくられていたり「Colored Students(有色人種の学生)」のためのサークルのような団体に勧誘されたりしたことは、大学卒業まで日本で日本人として自分の出自を意識することなく育ってきた私には衝撃的でした。
昔も今も思うのは、白も色の一つなのにこの文脈でColoredという時にWhiteは含まないという暗黙の了解に対する違和感です。何よりも「白、それ以外」というあまりにもざっくりとした分け方に戸惑ったものです。
定義としては私もBIPOCに含まれるのでしょうが、BIPOC 対象のワークショップやイベントに自分が参加してもいいのかどうか判断に困るというのが正直なところです。語弊があるかもしれませんが、米国で生きる黒人や先住民、ヒスパニック系の方々とアジア系移民である私との間には「白人ではない」という共通点以外、同じ目線で人生を経験してきたようには思えないからです。
例えば、私は最近のアジア系へのヘイトクライムに対して不安や恐怖を感じていますが、「これは一時的なものでそのうち無くなるだろう」という楽観的な希望を持っていることも事実です。生まれてから今までずっと差別を受け続けてきた訳ではない(そういうサバイバル・ボディが築かれていない)ため「差別をされない自分」のイメージを持つことが難しくないからです。歴史上ずっと虐げられてきたであろう米国の黒人の方々はこのイメージを持つことが容易にできるでしょうか。私が今感じている「差別されている」という感情や恐怖は、果たして同じ土俵で語れるものなのでしょうか。
最近のアジア系へのヘイトクライム増加に伴い、新たにAAPIという言葉も耳にするようになりました。こちらはAsian American and Pacific Islander(アジア・太平洋諸島系アメリカ人)を指すそうです。
外見から判断すれば私はAAPIの一員なのでしょうが、米国市民権を持っているわけではない(=「アメリカ人」ではない)ので正確には私はここには含まれないことになります。しかしヘイトクライムの犠牲になっているのは「アジア系」であって必ずしも「アジア系アメリカ人」に限らないだろうことは容易に想像できます。
自分は何者なのか、自分で自分のことをどう定義するかというのは、俳優として自分(=自分が与えられたインストルメント)を知るプロセスで避けて通ることはできません。
日本で暮らしていた時、私は自分を「日本人」「女性」「関東出身」と捉えていました。海外で暮らすようになってからは、それよりももっと広く自分は「アジア人」だと意識しています。
人種についての議論がなされる時、自分がBIPOCやAAPIというコミュニティーに属しているという感覚はあまり無く、そのため自分のアイデンティティーが自分以外の誰かに定義されていくような違和感が否めません。けれどもこういう言葉が生まれることに反対という訳ではありません。この国が人種差別やヘイトクライムを無いものとはせず、きちんと向き合って解決していこうという姿勢の表れでもあると思うからです。そういう意味では、このような言葉が生まれてくることに救いを感じたりもします。
「自分は何者なのか」
私はアジア人で、日本人で、俳優です。
そしてそれ以前に、私はあなたと同じ、一人の人間です。
皆さんも今一度、自分は何者なのか自分に問いかけてみませんか。